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白村江の戦い

白村江の戦いついて書いています。

百済の滅亡

 斉明6(660)年7月、百済の滅亡により倭は対外戦争への道を歩まざるを得なくなった。百済の役の始まりである。

 唐の太宗による高句麗征討が失敗に終わった後、朝鮮半島は一時的に落ち着きを取り戻していた。しかし655年、百済と高句麗が新羅を攻撃すると、新羅は唐に救援を求め唐はこれに応じた。
 太宗の死によって649年に即位した高宗は、西域での西突厥との戦いに勝利を収める(657年)とその目を東に向けた。またこの西突厥との戦いで活躍した勇将、契苾何力、蘇定方らが朝鮮半島での戦いへと送りこまれたのである。
 斉明5(659)年の遣唐使を幽閉し秘密の漏えいを防ぐなど、唐は秘密裏に百済への攻撃を準備し、遂に660年6月、蘇定方の率いる大軍が海から百済に進攻した。同時に新羅も陸から百済を攻め、この二方面作戦によって百済は同年7月に滅亡した。

百済再興の動き

 660年12月、唐が高句麗征討に動き出すと百済遺民の鬼室福信、道琛らによる百済復興運動が起きた。倭には同年の9月に百済滅亡の知らせが届けられ、10月には鬼室福信の使者が来航し救援を求めるとともに、倭にいる王子豊璋を擁立したいとの考えを述べた。
 朝鮮半島での権益を守るべく動き出した倭は、斉明7(661)年の正月、斉明天皇が率い北九州へ出兵した(御船西征)。途中、伊予熟田津(現在の愛媛県松山市)に立ち寄ったりもしたが、3月下旬に娜大津(現在の福岡市)に至り、斉明は磐瀬行宮に入った後、朝倉橘広庭宮へと遷居し指揮にあたったが、7月に急死してしまう。  

白村江の戦い

 中大兄皇子は斉明7(661)年8月、前軍・後軍からなる第一次進攻軍を出発させ、次いで豊璋に5000人の護衛となる兵を与えて百済へ送り出した。
 そして663年の3月には第二次の進攻軍を送った。前軍・中軍・後軍からなる2万7000人の大軍であった。しかし6月に百済に内紛が起き、豊璋が鬼室福信を殺害してしまう。
 そして8月、唐と新羅の軍が豊璋のいる周留城を囲んだ。この時唐の水軍は倭の周留城救援を阻止するため白村江で待ち受けた。27日と翌28日に倭と唐の水軍による会戦が行われたが、唐水軍の挟撃などによって倭水軍は大敗した。百済の役の終わりである。豊璋は高句麗に逃れ、周留城は陥落、これにより百済は完全に滅亡した。

戦いの後

 この大敗により自らが唐の脅威にさらされることとなった倭は、大急ぎで自国の防衛と国家体制の整備を進めた。664年、対馬・壱岐・北九州に防人が配備された。また同時に、博多湾沿岸に位置していた大宰府は内陸部に移され水城が建設された。翌年には大宰府の北に大野城、南に基肄城が築かれた。
 水城とは高さ13メートル、長さ1.2キロに及ぶ長城型の城で、片側は大野城の山から始まり反対側の台地に接し、博多湾から大宰府に至る道となる低地を遮っていた。壁の博多湾側には幅60メートル、深さ4メートルの濠が水で満たされ、水城の名の由来となった。
 大野城・基肄城は百済人の指導によって造られ、朝鮮の山城との類似性がうかがえるため朝鮮式山城と呼ばれる。基肄城の城壁は4.2キロもあり、城壁が城塞防衛の要となっている点などがそうである。

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